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2006年2–3月号 冨田康子「アート・トップ」

 まるで子どもの玩具か何かを思わせる、愛らしい造形である。いずれも二十センチほどの大きさで、両の手で包み込むように持つと、ちょうどおさまるくらい。 ぽってりとした朱の肌は、よく見るとほのかな潤みを帯びて、どこかユーモラスな印象のこの作品に初々しいツヤをもたらしている。子どもの玩具、というよりはむしろ子どもそのもの、それもまるであどけない幼児のような、無垢と神秘と、おかしみとを併せ持つ形である。
 笹井史恵は、初個展以来、一貫して、このようにコロンと愛らしく、また見方によってはどこか艶めいてもいるような、ユーモア漂うオブジェを手がけてきた。原型は発砲材、実際に造形する段階では 乾漆の技法を用い、表面は漆塗りで仕上げてある。作品の多くは朱色で、ものによっては目を凝らすとやっとわかる程度にかすかな筆跡が残る。塗りの最後に研磨を行わない、いわゆる塗り立ての技法のゆえである。
 ときに笹井は、これらを何十個と並べたインスタレーションを試みることもあるのだが、それはもしかすると、現代美術にコミットメントするための笹井なりの方便なのかもしれない。 というのも、これらの作品がもつ本来の魅力を知るのに、必ずしも量は必要でないように思えるからだ。それは、むしろ単体で見たときにこそ存在感を際立たせる。ふくよかだ触覚性に富んだ、この愛すべき造形について知るには、 それを一つでもよいから近しく親密に眺めてみるに限る。“鑑賞”ではなく、いわば“愛玩”のスタンスのほうが、これらの作品には似つかわしい。
 もちろんそれは、ある意味で、これらの作品が高い完成度をもち、造形的に堅牢であることの証である。そういえば、笹井の作品に限らず、軽妙で愛らしい玩具的な造形物というのは、 日本の伝来の造形技術——すなわち工芸が最も得意としてきた分野であるが、その支えとなっているのは、素材とそれを扱う技術との、きわめて高度な洗練である。遊びと笑いの要素を含んだあたたかな造形感覚は、 肩肘張った近代美術が置き忘れてきた日本美術の特質として、近年あらためて注目されているけれども、正否はともかくそうした文脈に照らせば、笹井の作品には確かに、現代における工芸の意義を正しく認識させるだけの説得力があるだろう。なおいえば、みずからの技法にあくまでも依拠した造形のあり方とは、そのまま“手”への信頼のあらわれであり、おそらくそれは人間性ともいうべきものへの信頼にも通底するのではないだろうか。
 もう一つ、笹井の表現の特徴をなすのは、幼形ともいうべき独特の形である。ユーモアの要素と取り込もうとする現代のアーティストは、しばしばキッチュやパロディといった“はぐらかし”の手法を好むものだが、 笹井の場合はそうではない。これらの作品がもつ愛らしさや“おかしみ”の深部には、“はぐらかし”どころか、幼形に象徴される純粋性への志向ともいうべきものが秘められているように見える。 洗練された技術、純粋性への志向、この作家ならではの溌剌とした造形感覚——そうしたものの得がたい出会いによって、ここにはきわめて上質な、“形のユーモア”が実現している。

とみたやすこ 東京国立近代美術館工芸館客員研究員