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2009年3月10日 植草学「信農毎日新聞 美ここから」

乳房や赤ちゃんのおしり、イルカやオタマジャクシのような形。暖かい血潮を思わせる朱赤や赤色。命を宿しているかのような、愛すべきオブジェだ。指で押したら、ぷるぷると動きだしそうな——。 そう思って見つめていたら、展示室にいた係員から「手を触れてください」と“注意”された。触って鑑賞する作品だという。えっ触るんですか、と恐る恐る手を伸ばした。 三月初めまでに二ヶ月間、愛知県の豊田市美術館で開かれた笹井史恵さんの個展でのことだ。笹井さんに作品は漆芸。わんのような実用品ではなく、見るだけの工芸品でもない、触る鑑賞を意図した造形で近年、注目されている。 「小さいころ運動会のフォークダンスで、クラスメートの手を握るでしょう。意識して他人の手に触れる、たぶん初めての機会。その時、手の感触って一人一人違うんだなあと、ちょっと驚きませんでしたか。 あの感覚を思い出してほしいんです」 「言い換えれば、健康的なエロチシズムを感じてほしい」と笑う。もともと、漆器は使うほど手になじむのが魅力。ただ、笹井さんの作品は生殖器を思わせる造形もあるだけに、触るのは恥ずかしいような、おっかな びっくりした気持ちになる。そんな心の揺れも、鑑賞の一部だ。 京都も大学で漆芸を修めた後、やはり漆芸の歴史があるタイに留学。技法・材料などの違いを学ぶ一方で「タイで個展を開いたら、寄せられた感想は日本とあまり違わなかった」。 漆文化圏に共通の、アジア的なおおらかさが作風に表れていたのだろう。 幼いころから図画よりも工作が得意だった。「母に聞くと二歳くらいから、はさみで切り抜き遊びをよくしていたそうです」。高校の美術部では油絵も制作したが「画面にうまく納まらず、いつもはみ出してしまった」。 構図のとり方が苦手だと気づき、工芸の道へ進んだという。 画面からはみ出してしまったのは、外へ“膨らむ”ような形を好む感性を持っていたからでは?「今の作風がぷりぷりとした丸い形なのは、私の感性ゆえか、漆を塗る作業が必然的に導いた形だからか。はっきりしません」 「ただ、例えば赤ちゃんを見ると誰もがかわいいと感じますよね。赤ちゃんに限らず、こういう形のものは愛しなさい、という先天的なプログラムが人間には内蔵されている、と思うことはあります」 人間に内蔵されている、人間自身にも未知のプログラム——。それを解読し、人間とはどんなものを愛する存在なのかを解明することも、芸術が担う一つの役割にちがいない。 「科学や宗教も本質は同じだと思います。美しいものや愛すべきものを見いだし、耳を傾け、肌で感じることは人間にのみ可能な特権。生きものの中で人間だけに、人間ゆえに与えられた特権だと思うから、 私は大切にしたい」

植草 学